岩崎運河と大阪ガス会社
 旧称松島西側から大阪港に流れていた尻無川(昭和25年2月埋立)は川幅も狭く水深も浅く、大型船の通行不能であったので、大正9年大阪ガス岩崎工場の南側を通って、木津川と尻無川を結ぶ岩崎運河560メートルを開削した。これによって尻無川は木津川、西道頓堀川と直結した。
 岩崎新田は、明和年間(1764〜72)に開発された新田で、開発者と葭屋仁右衛門という。明治6年7月火葬禁止令がでたとき大阪府はこの地に墓地を設け、岩崎墳墓地としたが、同8年5月ころの禁止令が解除され、八弘社によって火葬場が建設された。同40年2月経営は大阪市に移り、市営葬儀所となったが、翌41年6月末日をもって廃止された。
 大阪ガス会社は、木津川・尻無川に面したこの地が、当時石灰商の多かった安治川との船便に好都合であり、また西船場や川口居留地・松島・九条の繁華街の需要に近いところから、明治29年本社工場を計画し、同38年1月から建設にかかり、9月には水平レトルト八門、容量約3万立方米のガス留などを備えた東洋一を誇る岩崎工場を完成させた。ガスの供給が開始されると、松島町をはじめ九条新道、千代崎橋の一帯にはガス灯が点火され、その白熱の明かりの強烈さに市民は驚いた。これよりさき大正6年5月5日、国津橋の安治川対岸安井町で、東京倉庫の大爆発があり、約5時間後に鎮火したが、破壊家屋4千、死者43、負傷者354名という、当地における突発事故の最大のものであった。所有者の三菱の岩崎小弥太は、見舞金百万円を提供したという。

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