九条(衢攘)
 九条の地は、古く南浦と呼ばれていたが、寛永(1624〜44)のころ香西ル雲という幕府役人が、土着の人池山新兵衛(一吉)の協力により開発した。香西は開発にあたり、知人で幕政に関与した儒者の林道春(羅山)に、この地を衢攘島と命名してもらったという。「衢」とは街・人の集まる所という意である。この命名については諸説があるが、一説に池山一吉はもと他郷の人で、諸大名から招かれたが意があって当地の池山家に入籍し、新兵衛を襲名したが、もとの姓を攘島といったので、開発者の名を後世に残すため、姓の上に衢の一字を冠したものともいう。新兵衛が開発に際して菩提寺として建てたのが竹林寺(本田1−9)で、山号を如心山というが、これは新兵衛の号である如心をとったものである。ついでながら池山家の邸宅は、本田3丁目の南西部一角(本田会館の南)にあり、門前の道を神輿道と称したのは、茨住吉神社の夏祭りの行列が、池山家に敬意を表して狭い道を無理しながら、毎年通ったためである。邸内の一角に稲荷が祭られ、慶応年間(1865〜67)に建てられた池山家の碑があった。
 衢攘が九条に変わったのは、延宝年間(1673〜81)に水害があり、「京九条家」と書いた木笏(束帯着用のとき、右手に持って威儀を整えた板片)が、淀川を流れ下って当地に着いたため、同音で簡略な「九条」に改めたというが、古来この地の伝承の一つとなっている。しかし明和5年(1768)前後に、「九攘」と書かれた記録も数点見ることができる。
 なお、境川1〜2丁目と、港区の波除1丁目、市岡元町1丁目、南市岡1丁目の境界には、延長1598メートル、幅36メートルの境川運河があった。安治川と尻無川を結ぶため、大阪運河株式会社により明治30年8月起工し、同35年4月完成したもので、明治末から大正期にかけて、長堀川北岸の材木商が多数移転してきたが、その後これらの材木商の他所への移動もあり、昭和44年3月に埋め立てられた。埋め立て前には北から境川橋・玉船橋・汐干橋・辰巳橋・北六橋・玉藻橋・入船橋の7橋が架かっており、港区と結んでいた。

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