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龍溪性潜は、隠元を補佐して宇治万福寺建立にもっとも功のあった僧である。慶長7年(1602)京都に生まれ、16歳のとき摂津の普門寺にて得度、50歳にして妙心寺にはいった。号は如常老人、龍溪は字である。後水尾上皇の尊信を受けることが特に厚く、上皇は龍溪の指導により禅悟の域に達し、大宗正統禅師の号を賜った。たまたま寛文10年(1670)、龍溪は檀越の請によって九島院に滞在中『摂津名所図会』に「瀑雨騒ぎ至って山海震動し、大風地をゆすりて巨浪天に翻る」と書かれたほどの大風雨・洪水にあい、座禅のまま禅家にふさわしい死をとげた。後世の人々は「九条の人柱」といってその死をいたんだ。後水尾上皇もまた師の冥福を祈り、龍溪死没の翌年、九島院で水灯会(せがき)を修された。この法会はしばらく続いたが、一時中止ののち飯田直好が私財を投じて復活し、享保3年(1718)公許により安治川中流において川せがきが修されるようになった。九島院には「寛文大津浪・龍溪禅師水定遺蹟」の碑があり、右面に「昭和10年2月」、左面に「昭和9年9月21日・大阪颱風津浪為記念建立」と刻まれている。昭和45年大阪市は市の顕彰史蹟に指定し、「龍溪禅師墓所」の碑を九島院山門に建てた。
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