富島
 富島は、もと大仏島と呼ばれていた。その名の起こりは、江戸時代三傑僧の一人といわれた公慶が、永禄10年(1567)に焼失した東大寺大仏殿の復興を志し、全国勧進行脚の途中、この地に松庵をむすび付近一帯の浄財寄付を募ったところ、膨大な喜捨が集まったので大仏島と呼ばれ、後にまた「富んだ島」ということから富島に変わったという。古川町とともに元禄16年(1703)大坂三郷のうち天満組に編入された。幕末には萩藩の蔵屋敷もあったが、川口に隣接して旅客人のための波止場であり、昭和20年ころまでは四国・九州への旅客船は、この富島や国津橋を起点としていた。  海員養成の私塾もあった。大阪商船学校は明治11年の創設、ほかに海明学館もあったが、明治32年ごろいずれも廃校になった。大阪商船会社の発祥地もこの富島である。大阪商船会社は明治16年住友・山口らの財閥によって組織され、大正14年に北区の宗是町に移転したが、この地付近一帯には移転まで船員の家族が多数居住していた。そのためにできたのが大阪掖済会病院で、「掖」とは助けるという意である。明治41年創立、全科診療病院としては西区最古のものである。この病院のもとであった日本海員掖済会は、明治31年10月、民法施行による社団法人の第1号である。

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