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大阪開港とともに、川口町一帯に外国人居留地が造成され、明治元年7月29日、川口運上所において居留地26区の永代借地権の競売が行われた。その結果イギリス(13区)・フランス(2区)・ドイツ(4区)・オランダ(2区)・アメリカ(4区)・ベルギー(1区)の外国人が落札し、造成に要した多額の費用も回収された。まもなく下水道が設置され、歩道・車道の区別も完備されたところにガス灯も輝き、西洋建築が建ちはじめた。最初の入居者には商人が多く、牛肉・牛乳・パンなどの食料品から、靴・鳥打帽子・洋服など、当時の日本人には珍奇な商品が売買され、人々を驚かせた。しかし大坂商人らは保守的でこれら新しい商品に消極的であったうえ、この地が大型船舶の出入りに不便であり、さらに外国商人の専横を許さなかったため、やがて外国商人らは次第に神戸居留地へ移転していった。その跡に入居したのは、キリスト教会とそれに付属した学校・病院などで、ウイルミナ女学校(後の大阪女学院)・永生女学院(後のプール女学院)・照暗女学院(後の平安女学院)・三一神学校(後の桃山学院)・英和学舎・聖バルナバ病院・信愛孤児院(後の信愛女学院)などが、次々に創設された。これらの学校は、現在は各地に移転してマンモス学校に発展したものが多いが、三一神学校を除くとすべて女子校である。キリスト教布教者らが、当時の日本が男尊女卑であることを見て、まず女子の自覚を高めることに力を入れ、女子教育に尽くしたことがわかる。
川口居留地の様相は、当時の人々にとって「文明開化」そのものであったが、明治32年に廃止され、外国人の永代借地権は昭和17年3月にすべて消失した。居留地時代の建物は一つも現存していないが、明治6年に創建され、大正4年に再建された川口キリスト教会の建物が、わずかに当時のおもかげを残している。なお、川口の北端にある郵船ビルは、川口教会に次ぐ古い建造物で、大正8年に建てられた。石体鉄築レンガ造り復興型と称された3階建で、エレベーターも設置されている。建築にあたったのはイギリス人技師で、主として外国製の材料を使用し、3ヶ年の年月を費やして完成した。本田小学校西北隅には、昭和36年3月大阪市が建てた「川口居留地跡」の顕彰碑がある。
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