立売堀川の跡
 立売堀川は西横堀川から分かれて西に流れ、木津川と百間堀川の合流点にはいっていた堀川で、昭和31年1月に埋め立てを完了して姿を消した。伊達堀とも鼬堀とも書いたが、立売堀を「イタチボリ」と読ませることについては、『摂津名所図会大成』に、「慶元戦争(大坂冬の陣・夏の陣)の時、伊達家の陣所の地にして、要害の堀切なりし跡を穿足して川とせし故に、始は伊達堀とよべり。後に字音のままに伊達ぼりと言ひしを、俗に訛りていたちぼりと言ひならわせり。其後にはじめて材木の立売を御免なりし故に、立売堀とあらためしとぞ」とある。開削は元和6年(1620)に着手したが、途中一時工事を中止、寛永3年(1626)惣年寄の突喰屋次郎右衛門が工事を継続再開して完成したという。はじめ長さ11町36間半(約1270メートル)、幅10間(約18.1メートル)の川であったが、明和4年(1767)から幅8間(約15.5メートル)になった。埋め立て前には新一橋・阿古屋橋・槌橋・明治橋・阿波橋・立売橋・突喰屋橋・西二橋・高橋の9橋が架かっていた。近く「立売堀川跡」の名碑が建てられることになっている。なお、旧立売堀川両岸の町々は、いま機械工具の町としての発展を続けている。

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